『冒険者と川の主と渡航』
川は怒っていた。 空を覆う黒雲、轟く雷、濁流のように暴れる水面。私は依頼を受け、村の向こう岸へ向かうため、小さな渡し舟に乗っていた。 普段なら穏やかな大河だというのに、その日はまるで別の生き物のように荒れていた。 船頭が顔を青くして呟く。 「まずい……主が目覚めた」 次の瞬間、川が盛り上がった。 水柱を裂きながら現れたのは、巨大な影。空へ届くほど長い身体、鋭い眼光、雷光に照らされる鱗――古くから“川の主”と恐れられる存在だった。 舟が激しく傾き、悲鳴が上がる。 けれど私は剣を抜いた。 「私は渡らないといけない」 本当は怖かった。膝は震え、息も浅い。それでも、この先に待つ人のもとへ行くため、引き返す選択だけはできなかった。 私は濁流を蹴り、跳ぶ。 雷を映した剣が主へ向かい、巨大な牙とぶつかった瞬間、白い閃光が夜を裂いた。 ――だが、主は私を呑み込まなかった。 黄色い瞳が静かに私を見下ろし、低い声が頭に響く。 『なぜ、命を懸けてまで渡る』 私は荒い息のまま答えた。 「怖い。でも、それでも会いたい人がいる。だから進む」 しばらく沈黙が流れたあと、主は長い身体をゆっくり川面へ横たえた。 荒れていた流れが、不思議と静まっていく。 『覚悟ある旅人に、川は道を開く』 私は息を呑みながら、その巨大な背を渡った。冷たい鱗の感触の下で川は静かに流れ、雷鳴さえ遠ざかっていく。 向こう岸へ辿り着いた時、私は振り返った。 そこにはもう主の姿はなく、ただ大河だけが、何事もなかったように夜を流れていた。
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